”支配する者”──”統べる者”──”武丸”さんがお帰りになりましたってよォ・・・・

前回紹介した「生き延びるためのラカン」を書いた斉藤環はこういう本も書いている。

世界が土曜の夜の夢なら  ヤンキーと精神分析
斎藤 環
角川書店(角川グループパブリッシング)
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まぁ読んだことはないんだけど、ネットで読めるこういう記事もあるし、だいたいこういうことを書いているんだと思う。

  

このひとに限らず、最近一部でヤンキー論がはやっている。ヤンキーと言っても”武丸クン”とか”マー坊”みたいな気合の入った人たちではない。
「マイルドヤンキー」なんていう言葉もあるように、最近話題になっている「ヤンキー」は「上京志向がなく、地元で強固な人間関係と生活基盤を構築し、地元から出たがらない若者たち」を指すという。このヤンキー論には「そんな連中昔からいるだろ、何を今更」という批判が多く寄せられているけど、昔に比べて日本国外へ行くのもハードルが下がり仕事にせよプライベートにせよ国境の重要性は下がっている。インターネットは言わずもがなだ。そんな時代に「数十年前と同じ生き方をしている」というのは十分検討しなくてはいけない問題だと思う。
(何年か前のデータだが、東京都と青森県では20代の海外旅行経験率に6倍の差が生まれているそうだ。20年前30年前はどうだったのだろうか?
http://tmaita77.blogspot.jp/2012/12/blog-post_6.html)
日本以外の国には住んだこともないけど、フランスはパリ一極集中って聞く。

僕も(場所は伏せるが)とある駅から最寄りのショッピングモールまでのシャトルバスの社内ですでに社会人と思われる二人組が延々「○○先輩がどうした、××先輩がどうした」という話しかしていなかったのを聞いて、聞こえる言葉こそ同じだが違う世界に来てしまったのではないかと思った。

しかし、この視点はかつてヨーロッパ人が「未開人」を眺めていたのと同じような「我々が正してやらなければ」という意識を持っているものではないだろうか。

ヤンキーを論ずるような人たちは基本的に都市に住んでいる、これは定量的なデータこそないが妥当な推定だと思う。かくいう自分も(だいたい)そうだと思う。府中なんかは住んでいるときはこんな糞田舎と思っていたけれども…。
そして学歴や社会的地位といった「客観的な」指標からみてもヤンキーを語る者はヤンキーよりも「勝って」いるという力関係が往々にして見られる。

さらにいうと「ヤンキー」というのは複合的な概念なのでかなり恣意的な運用が可能なのだが、「論理よりも勢い・反知性主義」が挙げられていることが多い。これは何を意味しているのかというと、ヤンキー論に「いや俺達はそんなんじゃねぇぞ」という反「論」をした時点でもうそいつはヤンキーではなくなってしまう。
つまり、ヤンキーは決して反論してこない。「ヤンキー」について語ることができるのは非ヤンキーだけなのである。

語るときも読むときも、そういうことを意識しておく必要があるだろう。