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「『アイズ・ワイド・シャット』を観るラカン」を読むぼく

感想/映画・ドラマ
最近、映画の感想文しか書いてない気がするけど気にせず。
みた映画は表題の通り「アイズ・ワイド・シャット」。
ちなみに、役名で書いてもわかりづらいので、トム・クルーズ演じる登場人物を<トム・クルーズ>みたいにかく。

トム・クルーズは目を閉じて二人の世界にいるが、
ニコール・キッドマントム・クルーズではなくこちらを見ている


はじめにいうと、見てる間は正直退屈な映画だったんだけど見終わったあといろいろ考えを巡らせているのが楽しい映画だった。ジジェクの「ラカンはこう読め!」に「『アイズ・ワイド・シャット』を観るラカン」という章があり、この本の中で僕がもっとも好きな章だが、実際に映画を見てから読み直すとまた新しい発見があった。

ちなみにはじめに言っておくと、「この映画は途中から<トム・クルーズ>の見ている夢と現実が入り混じっている」みたいな解釈は正直全然ピンとこない。
むしろこれは説話みたいな物語で、どこが現実だとか夢だとか指摘するのにあまり意味がないように思った。

「『アイズ・ワイド・シャット』を観るラカン」において、個人的にもっとも響いたのは
ラカンによれば、<他者>の欲望の謎に対する答えを与えてくれるのは幻想である。幻想に関して、最初に注目すべきことは、幻想は「欲望の仕方」を文字通りに教えてくれるということである。
という一節。

欲望とは、「欠如が先にあり、それを埋めようと思うこと」ではない。そうではなく、「幻想によって欠如があることに"気が付か"され、それを埋めようと思うこと」である。

幻想は我々に欠如を教えこむ、というよりも、欠如を作り出す。
今一番わかりやすいのはスマートフォンだろうか。新製品が出るとき、「君はすでにスマートフォンを持っているかもしれない。でもそれはまだ本物のスマートな体験を与えてくれるものではない…。私達が新しく開発したこのスマートフォンこそが本物のスマートフォンだ」といった具合に。昔だったらGMのイヤーモデルとかそんな感じなんですかね。

幻想は「今まで持っていなかったものを欲しくさせる」だけではなく、「すでに持っているものを覆い隠し、あたかも持っていないかのように思わせる」作用もあるのだろう。
<トム・クルーズ>が<ニコール・キッドマン>に隠されていた秘密があることを知り、急に浮気しようと思い立つ。けれども、別に隠されていた秘密を知ったことで何かを奪われたわけではない。

とはいえ、<トム・クルーズ>は結局浮気を成し遂げることはできなかった。それはなぜかというと、その欲望の仕方を教えてくれる幻想を持っていなかったからである。
<ニコール・キッドマン>が自分のしらない欲望を持っていると知り、自分も「仕返し」してやろうと思ったわけだけども、、。
ラカンによる愛の定義―「愛とは自分の持っていないものを与えることである」―には、以下を補う必要がある。「それを欲していない人に」。
以前引用したことのあるこの一節も実は「『アイズ・ワイド・シャット』を観るラカン」からの引用であった。これは、いかに自分を相手にとって自分を欲望させる幻想として見せることができるかという話な気がしてきた。

なんかまとまりのない話になったけど、総合的におもしろい映画でした。