やなせたかしの死に思う 命についていくつか

先日、やなせたかし氏が亡くなった。(以下敬称略)
個人的に親交があったわけでもなく、アンパンマンもあまり見たことがないので悲しみに襲われたりはしなかったのだが、「やなせたかしでも死ぬんだな…」と感慨深い。
まだご存命の水木しげる氏などもそうだが、やなせたかしはいつまでも生きるんじゃないかと考えていた。

すでに20歳を超えて、 2013年現在の基準で考えればすでに寿命の1/4は終わっているわけだが、未だに死はあらゆる生に平等に訪れるものだ、というのが実感できていない。

同級生が事故や病気で死んだという経験もない。父方の祖父母はふたりとも亡くなったが、母方の祖父母は両方とも健在だ。
未だに、死ぬ人間は予め決まっていて、そこに入っていない人間は死なないのではないかと思ってしまう。
もしくは、癌や心臓・脳の血管などなどに気をつけて適切な治療を行うことができればいつまでも生きられるのではないかというふうに。

父方の祖父母のほうが母方の祖父母より年上だったというのもあるが、父方の祖父母は母方の祖父母に比べて体格も小さく、老けて見えた。
母方の方はふたりともタバコは吸わず酒も健康のためのワイン一杯程度、祖父は元甲子園球児。
一方、父方の祖父は酒もタバコもやるし、祖母も相当な量の副流煙を吸い込んでいただろう。(死因はふたりとも癌らしい)
そんなこともあって、母方の祖父母はすでに父方の祖父母がそれぞれ亡くなった歳を超えたがなお亡くなる前の父方の祖父母より若く見える。
やなせたかしは確かに長生きはしたが、残念ながら不死者ではなかったのだろう。でも母方の祖父母はひょっとして…。という考えを捨てきることができない。

いつから人は死は逃れられないものだと実感するようになるのだろうか?
考えると、老化というのは死の受容のために大切なプロセスなのではないだろうか。だんだんと自分が衰えていくことで、そして自分と同年代の知己が衰え死んでいくことで「ああ、自分もこうやって死んでいくんだな」と思うことができるようになるんだと思う。
老人性痴呆というのも、死への恐怖を和らげるための防衛プロセスなんだという人もいる。
となると、いつまでも若く、ぼけずにいられる不老長寿というものは結構怖いものなのかもしれない。



不老不死というものを求める人がいる。
科学技術の進歩で、万が一くらいの確率でそれに近いことは自分が生きているうちに実現されるかもしれない。

しかし、不老長寿を望んでいる人が望むのは単に長く生きることではないだろう。他の人より長生きすることでもないと思う。
不老長寿を望む人が本当に望んでいるのは、いつまでも終わらない「今」なのだ。言い換えればいつでもやり直せる今。

例えば…
もう小学校を卒業して10年近く経つ。半分くらいはすでに社会人になっているだろうし、子供だっているかもしれない。
仮にもう一度クラスの人達に会っても、それはあのころに戻ったことにはならないのだ。

不老不死になりたい、という願望はこの事実を受け入れたくないということなんだと思う。
一旦は卒業しても、望めば再び小学生に戻ることができる世界。そんな世界を望んでいるのだ。

ARIAのラストはなかなか考えさせるものがある。




無粋な話だが、経済的にもモノには希少性があるから価値がある。
だから、命が輝けるのは限りがあるから。
楽しかったあの頃には二度と戻ることができないから、いつまでも素敵な思い出であり続ける…。


FPSが割りと好きで、CoD4:MWなんかは結構やった。
プレイしていると、命ってはかないものなんだ、と思う。
もちろんゲームの中の人間をだが、マウスクリック一つで簡単に殺せてしまう。

だが、これは現実も同じだ。
銃の引き金を引くにはマウスボタンを押すよりも力が必要かもしれないが、人差し指一本で人が殺せることに変わりはない。

近代社会は、死を日常から排除した。死を忘れてしまえば、生の貴重さも忘れてしまう。これが「生きてる実感が無い」の原因だろう。
そんな社会から逃れるために、ゲーム内で殺し殺され擬似的に過剰なまでの死を体験することで生を感じたいのかもしれない。