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インターネット帝国主義とイオンの福音

雑記/思考の軌跡
Amazonが日本でも使われ始めた頃、「これなら田舎でも都会と対等の暮らしができる!」といった素朴な期待ををよく見た気がする。
Amazonにかぎらず、インターネットは現実世界に存在する中心と周縁の差異を消し去っていくものだという期待があったと思う。
しかし、IT系の有名企業がみんな東京に本社をおいて、そこに富が流れ込んでいるのを見ると、現実にはそうはなっていないと思う。
※インターネットという言葉が何を指しているのかあいまいだが、基本的には一般大衆が使うWorldWideWebということになるのだろうか。このへんの用語の厳密な意味ってむずかしいですよね。



ドワンゴ会長の川上量生氏のインタビュー記事に興味深い一節があったので引用する。
みんな、なんで本を買ってるかていうと、本を見ているからでしょ。アマゾンに並んでいたって本を見ることはな いんですよ。みんな見るのは本屋とかで並んでいるから、そこで本が売れるんですよね。 最近聞いた話でおもしろいと思ったのがアナログのボードゲーム。モ ノポリーとか、紙のボードゲームです。実はドイツがヨーロッパの中でいちばん進んでいて、すごく人気なんですけど、それが今、駄目らしいんですよ。紙の ボードゲームが売れなくなってきた。フランスはいいらしいんですよ。 世界的な傾向で、アメリカもだめ、ドイツもだめ、イギリスもだめ。すべて原因はアマゾン。紙のゲームっ て、愛好家がやってるものだから、地方のショップが定期的にゲーム大会を開くとかして、それでコミュニティを維持していた部分ある。ところが、そういった コミュニティのコストを払わないアマゾンが安い値段で売るから、買うときはアマゾンで買っちゃう。ドイツのローカルのお店がどんどんつぶれてしまって、 ゲームの競技人口も減って、どんどんマーケットがシュリンクする減少が起こっていて。

 いろんなジャンルで今起こっている現象なんです ね。アマゾンが進出したためにマーケットが崩壊する現象が。リアルなお店がつぶれたことでマーケットが崩壊する現象。アメリカの音楽市場が崩壊したのも、 タワーレコードとか、ああいうリアルな流通網がだめになって急激にだめになった。リアルなお店の網を持っていることがすごく重要なことなんです。

食品や洗剤と違って本やボードゲームなんてものはなくたって困りはしないものであるので、それを消費してもらうということは単にそれを買えば終わり、というものではなくそれを含むコンテキストをも消費してもらうということである。

Amazonはリアルの本屋と違って「出会い」がない、という話はいろんな人から聞かされるありきたりの意見であるが、それは仮想世界が現実に追い付いていないからという話ではなく、そもそもビジネスモデルとしてネット通販は客が指定したほしい物を提供することだけに狙いを絞ってコストを削減しているのである。Amazonのリコメンドシステムなんていうのはほんの表層的なものでしかない。

ネットというメディアはアクセス可能な情報が莫大であるためいたるところにフィルターがある。コンテンツ提供者の側も相手が見たがっている情報だけ抽出して見せたがるし(グノシーとか最たる例)見る側も更にその中から見たいものを選んで見る。
インターネットはその人がすでに備えているコンテキストに沿ったものを次から次へと提示する能力は進化させてきたが、新しいコンテキストを提示する能力の進化は進んでいない。

根本的にインターネットには新しいコンテキストを提示する能力はないというわけではないけれども、その部分を無視して安売りをしてきたから今のAmazonの隆盛があるわけであり今後もこの傾向は続くだろう。
研究の領域ではストリートビューのように「博物館をまるまる仮想化する」といったものを見たことがあるけれども…。

WEBサービスを作る人達は都市に住んでいて、まわりには新しい出会いを与えてくれる「リアルの場」があふれている。
だから提供者の側にはインターネットはリアルと相補的なものだという認識があると思う。しかし、日本(に限らずほとんどどの国にも)には家の外に出たところで「何もない」 地域がある。インターネットに期待されていたのは、そういう地域を救済することではなかったのではないだろうか。 しかし実際にインターネットがしたことは、先ほどのインタビューにもあるように地方のさまざまな「場」を破壊して中心と周縁の差異を強化することだったのではないだろうか?という気がしてならない。
(もちろん全部がそうではないけれども、全体の傾向として。)

その一方でイオンショッピングモールは素晴らしい役割を果たしていると思う。
ショッピングモールによるファスト風土化なんていう言葉はどちらかといえば都市に住む人が田舎に対して勝手に美しい日本の原風景みたいな幻想を持っていることの証で、こんな言葉を使っている人が本当に言いたいのは「カッペはカッペらしくしてろよ」のように感じる。田舎に生まれたからといって、都会の人が憧れるような物は足りないけれどものどかで牧歌的な生活をしなくてはいけないのだろうか?

都市のように人口密度が高くない地域で商圏人口を増やすには商圏を広げるしかない。(確かに車を利用できないと不利益を被ることにはなるけれども、シャトルバスを走らせるなど努力している)
どれだけ多様な商品を置くことができるかは商圏人口に依存するので、モールができることによって選択肢が増えたのは間違いないだろう。物の豊かさだけで文化的に豊かになれるかどうかは別として、寄与しているのは間違いないだろう。

日本では名目上すべての人は平等であるという。しかし現実には生まれた家が貧しいか豊かかはもちろん、生まれた地域が都市か田舎かによっても将来は大きく左右されている。
これは都市があって田舎があるという以上、避けられないことである。(もし完全に解決しようと思ったら、都市を破壊するしかないだろう。)しかし、少しでも多くの人が、少しでも多くの希望を持てる社会ができればいいなぁ、と思う次第なのであります。