システムオールグリーン コミュニケーションは不全

集団的自衛権:81年見解を変更 戦後安保の大転換

 
今日のニュースといえばこれですね。
 
この問題についての議論はこれが「手続きとして」問題なのか「方向性」として問題なのかが一緒になって語られている点だと思う。
「政府が勝手に憲法解釈を変えてはいけない」という批判は前者、「日本を戦争する国にしてはならない(これは少し取り違えているようなきもするけれども)」は後者に関わってくる。
 
後者のほうについては特にここでは何も言うつもりは無いが、はたして憲法解釈を行政権が勝手に変更することはどうなのだろうか?
個人的にはそこに大した問題は無いと思う。
 
立法の過程でどのような思惑がその条文に込められていたかはともかくとして、法律というのは単なる終端記号列である。
 
それをどう「解釈」するのかというのは基本的には司法権の役割ではある。しかし、司法権が解釈を行うのは、ある解釈をして欲しい団体と違う解釈をして欲しい団体が現れて衝突が起きた時に最終的な解釈を示す、という時だけでよい。
平時には、その法を行使する主体が読み解いて「適当な」範囲で解釈を行えばよいものなのだと思う。
 
ベンヤミンが『暴力批判論』のなかで警察権力は法措定的であり法維持的であるという二重性を指摘したが、法というものが解釈されない限りただの記号であるという(特に大陸系の法体系では)ということを考えると、警察にかぎらず法を行使する主体というのは法措定的な権力を持ち合わせていると考えるのはおかしくはないのではないだろうか。
 
というわけで、手続自体は問題がないと思う。反対派が今後すべきことは再びもとの憲法解釈に戻してくれるような政権が誕生するよう政治活動をおこなっていくことと、裁判所に判断を委ねることだと思う。
 
 
しかし、大きな問題がある。肝心の司法権の長である最高裁判所長官が

憲法は国民的議論に委ねる課題~最高裁長官

なんてことを言っているのである。これはあくまで「個人として言及を避ける」という意味なのかもしれないが、普通に考えてこの問題について最高裁は何もいいたくないよ、と捉えるべきだろう。
つまり、自分たちは責任のある仕事したくないよ、ということだ。
 
 
結局、よその国からむりやり政治制度をもってきたところでうまくいかなかったということになるのでしょうか。