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ネコネコランク

雑記/思考の軌跡
うちから歩いて2分くらい、荒川区東日暮里某所に、猫をテーマにした喫茶店がある。(一応店名は伏せる。)
はやりの猫カフェ とはちがい、猫が接客してくれるところではなく、食器や食べ物が猫なのだ。でも面倒なので一応猫カフェということにしてしまおう。
こういうこと
上のカレー以外もみんな猫。飲み物にもラテアートで猫が描かれる。
それ以外の猫要素としては、猫関連の書籍を結構所蔵している。

猫スタッフも一応いるのだが、 店内に常駐しているわけではなくて勝手に生きているので見られたらラッキーと言う感じのようだ。

ここがなんとも不思議なスポットで、猫をメインテーマにしつつもいろいろ盛り込みすぎてわけがわからないことになっている。

店主の人が昭和の少女文化的なもの好きらしく、3,40年くらい前風の家にまんだらけに並んでいるようなグッズが並んでいたり、ジュニアそれいゆという雑誌が置いてあったり。
他にもさまざまな世界観が盛り込まれていて、はじめは混乱させられてしまうだろう。

代替医療にも興味があるらしく、ホメオパシー関連の本が何冊か並んでいた。
中には猫のためのホメオパシーというものも…。メニューのほうもそれらしくものすごくオーガニックとかロハスとかそういうカンジのもので、合わない人には徹底的に合わないだろう。
中には雑穀米を食べるだけで消化器系に異常をきたす人がいるらしいし…。

で、少し思ったことがある。

さきほど述べた猫書籍の中に、猫の最後を看取る ということをテーマにした本があった。
もちろん、猫を飼うのならばいつかは別れがくるものなのだから考えなければならないテーマだ。可愛いところだけを楽しんで、飽きたら公園にすてちゃおうなんていうのは許されない。
飼おうと決めたからには最期の最後まで面倒を見てあげるべきである。(中には猫に看取られる人もいるだろうが)

しかし、猫カフェに行く客にそこまでを求めるのはどうなのか。
猫カフェに行く客はあくまでその場限りの付き合いをしに行っているのである。諸事情あって飼えない・ずっと世話していけるかどうかわからない等々理由は様々だが、その場限りの付き合いしかできない代わりに負わなければならない責任は軽いはずだ。(と思いたい)

それなのに、そういう本を読んでいたらそこの猫スタッフが姿を現してくれてもなんだか暗い気分になってしまう。

人には背負える悲しみの量に限りがある。
先日のやなせたかし氏の逝去の際も、「残念だ」 とおもった人は多いだろうが「悲しい」まで行った人はそういないだろう。
人が死ぬということに対しても、実は悲しいと感じられるのは相当近しい人だけなのである。
仮にすべての人に対してそこまで入れ込んでいたら、毎日悲しみに打ちひしがれながら生きることになってしまう。

街をあるいていてたくさんの人とすれ違う。その大部分の人の死は、自分にとってたいした話ではないのだ。
積極的に死ねといっているわけでもなく、その人が価値の無い人間であると言っているわけでもない。
その人が死んで悲しむ人はたくさんいるだろう。しかしその人と自分は一生に一度だけすれ違う程度の関係でしかなかったのだ。
その人にはその人の人生があって、ほぼ全ては自分とは関係ない場所で営まれてきた。それがほんの一瞬すれ違っただけでその人の喪失に対して悲しみを覚えるほどの責任はない。
その人の死を悲しむのはその人の家族であったり 友人のすることだ。

同じことは猫にもいえて、飼っているわけでもない猫に対してその最期のことまで気にかけている余裕はない。あ、可愛いなと思う程度で許してほしい。

猫カフェに行く時くらいは、そういうことを忘れて楽しませてほしいな~とおもった次第。
だから、できればそういう本は置いてほしくなかったなと感じた。

規模の違いはあれど、猫カフェとディズニーランドは同じ範疇に属する施設なのだ。現実を忘れて夢の国でのひとときを楽しむために行く。
ディズニーランドは外の世界を忘れるために園外のビルなどは一切見えないようになっているらしい。(有明がんセンターとか見えたら嫌だ)
それと同じような配慮をしてほしかったかな、と。