ファイト・クラブ

実際に見たのは少し前になるのだが、この映画は面白かった。
 存在自体は知っていたけど、あらすじは知らなかった。なので「ガチンコ ファイト・クラブ」を想像していたわけだが、全然違いましたね。

見ようと思ったきっかけは、消費社会論に関する何かを読んでいる時に「ファイト・クラブ」が言及されていたから。時代遅れかも知れないが、最近消費社会について考えることが多い。最近いろいろあって、「自分の欲望」というものと向きあおうとするんだけれども、そんなものはないんじゃないかと感じて…。

前半でたまに出てくるこういう演出すき
主人公の<僕>もそんな感じ。どうも給料はいい仕事についているようだが、一人暮らしで交友関係も感じられない。使いみちといえばブランド物と北欧家具といった感じ。(カルバン・クラインのシャツ、DKNYの靴、アルマーニのネクタイ…。アルマーニだけアメリカじゃないな。)

そんな<僕>が定職にもつかず廃屋同然の家に住むタイラー・ダーデンとの出会いにより変わっていくわけだが、物語終盤でタイラー・ダーデンは<僕>の中にいる妄想の存在であることが明らかになる。
 タイラー・ダーデンは<僕>の理想の姿であったわけだが、それが自分の中にいたということは、欲しいものは実はすぐそばにあったという青い鳥的な話になる。

 しかし、やはりタイラー・ダーデンは<僕>の中にいるもう一つの人格でしたーというオチには納得がいかない点がある。「二重人格」と「幻覚」を都合よくMixinしてるんじゃないかと。

飛行機の中でタイラー・ダーデンと出会う以前、何度か画面に「タイラー・ダーデン?」のようなブラッド・ピットの演じる人物が登場する。それはお遊び的な演出といわれているが、それだけだろうか。飛行機の中でタイラー・ダーデンと出会うわけだが、タイラー・ダーデンが心のなかにしかいない存在であれば、あれは一体誰だったのだろうか?
おそらく、タイラー・ダーデンという名前ではなかったにせよ飛行機の中でああいう「怪しげだが男らしい男」と出会ったというところまでは事実なのだろう。

ほんとうは<僕>の名前こそが「タイラー・ダーデン」なんだと思うけど、その出会いに衝撃を受け、その名前は<タイラー・ダーデン>のものとなり、<僕>は名前を失ってしまったのでは。
<タイラー・ダーデン>がいる間も<僕>は「タイラー・ダーデン」と呼ばれ、それを自分の名前と認識はしているはずだがそれは『タイラー・ダーデン』という音の連なりで成る名前だとは認識できていない…?(あーややこしい)

にしても、妄想の存在と殴りあって吹っ飛ぶのはさすがにどうなの…というのが正直なところ。きっと<僕>の父親は地上最強の生物に違いない。

ファイト・クラブが描いていたのは、「殴られること」や「名前と個性を奪われカリスマに隷従すること」で得られる共同体感覚だと思う。
「ロバート・ポールセン 」という名前の人間は死ぬかもしれないが、「ファイト・クラブ」は生き続けるという神話。
ファイト・クラブには殴りあいシーンが暴力的だという批判が寄せられたらしいが、それよりも危険なのはそういった「神話」なのだと。
 (テーヴェライトの『男たちの妄想』読みたいんだけど誰か買ってくれないかしら)