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ムーンライト・セレナーデ

テレビで最近やっているCM。




学校の授業を聞いて綺麗にノートをとる、これって本当に無駄だと思う。 まあ無意味とは言わないが、そんなことをしている暇があればもっと違うこと(後述)をしたほうが短い時間で高い成果をあげることができる。

東大合格生のノートは必ず美しい、なんていう本がいっときはやったが、僕は高校に入ってからノーというものをほぼ使わなくなった。真っ白だから美しい、という理屈もなくはないけど…。

勉強をする、というのはなにか。それは「問題を解決できるようになる」ことだ。
問題といっても「カレーをつくる」のような実生活で直接必要な物もあれば、いわゆる「勉強」の範疇に入るお受験的な問題も含まれる。最近やっているプログラミングなんていうのも、何か不満があるから新しいプログラムを作ってそれを解決しようというものである。
知識を詰め込むとか整理するというのは勉強の一部に過ぎない。

肝心なのは、実際にそれを問題を解く際に適用できるかどうか、なのである。
その際にリファレンス資料としてノートが役に立つということは否定しない。

しかし重要なのが、受験勉強用の参照資料というのは本屋に行けばよくできた既成の参考書が売られているということだ。だったらいちいち時間をたっぷりかけてノートをとるよりもそれを買ってきたほうが格段にいいに決まっている。足りない部分があれば適宜余白に書き足したりすればいい話であって、イチから自分オリジナルの参考書を作るなんていうのは、結果は伴わなくても方向性が間違っていてもとりあえず努力さえすればいいという日本的美徳の産物でしかない。

逆に言うと、市販の参考書がないような勉強をしているのならば積極的にノートを取ることに意味がある。 大学に入ってから読書ノートを取るようにしたんだけれども、これは後で読みなおすと読後に学んだこととリンクする事項を発見したりして面白かったりする。最近は全部電子化しちゃったけども。
ノートというものの真価が見えてくるのは、CM動画のように中高生のときではなく大学に入ってからなんじゃないだろうか。

勉強をする、ということに関して一番重要なのは演習をする、ということである。受験勉強で言えば、練習問題を解くことである。
といっても、やはり闇雲に解くというのではダメなのである。とりあえず漫然と時間だけを掛けるというのはやはり効率が悪い。


プログラミングの世界ではアジャイル開発とかテスト駆動開発という言葉があるが、受験勉強においても問題一題一題をテストととらえてそれを解くために必要な事項をくまなく抑えていけば、解く問題数こそ少なくしても十分な学習効果が得られる。(つまり、答え合わせの時が一番大事)
これはいちいちノートなんか使わなくても、適当な裏紙で十分。その日の終わりには捨ててしまっていい。 どうせ試験場には持ち込めないんだから。
(ただし、一度テストをパスしたコードをHDDに保存すればプログラムが問題の解き方を忘れることはないが、人間の場合は忘れることがあるという点には注意しないといけない。)


本の学校教育は効率が悪いんだそうだ。初等数学教育が成功していることで有名なインドであるが、授業時間自体は日本とそう変わらないらしい。裏付けはないけど、小学校算数の授業時間は日本の1.2倍程度なんだとか。
日本の公立学校の教師というのは、受験勉強を教えるという観点から見ると残念ながらそんなに質が高くない。教える側がどのようにすればがいいかを学生時代に経験しなかったので、おとなになっても知らないままなのである。

プログラミングにおける「デザインパターン」とか、コンサルティングファームのいう「ロジカルシンキング」なんていうものは、言われれば「そりゃそうだろ」というものが並んでいる。しかし、そういったノウハウを文章化することでその世界に入ったばかりのペーペーでも今までは感覚で掴んでいくしかなかった「熟練者の技」をとりあえず使えるようになる。
教育の場においてもそういった知識を導入する必要があるのではないだろうか。


今の公立校での成績評価でもっとも重視されるのは「関心・意欲・態度」である。要するに先生の話を真面目に聞くとかノート提出のときにきれいに色付けされたものを出すとかすればいい成績がつくような制度になっている。
しかし、勉強とは何かということを考えた場合、その評価指標はどれほど問題解決能力を得たか、つまり「テストでどれだけ点を取れるか」・「どれだけ良いレポートを書けるか」といった成果に基づくものしかないはず。
今の制度では、成績とは大人の顔色を伺う能力の評価にしかなっていない。

それなのにこのような評価基準をとるということは、日本の公教育の理念が根本からゆがんでいるということを示している。 

「努力すること自体を評価している」というかもしれないが、結果が出てないということは努力しているふりをしているだけなのか、その方向性が間違っているかのどちらかでしかない。前者の場合はともかく、後者の場合は指導者が軌道修正する必要があったはずだ。

6・3・3制度を変えてみよう、とか中高一貫校を増やそう、とかそういった瑣末なことを議論するよりも勉強は何のためにするのだろうか、ということを考える必要があるだろう。