供犠の意味

30日の事前準備に行った際に、漫画は児童ポルノではありませんという意見広告が貼ってあった。
インフォメーションで売っているということは、コミケット準備会と関係があるのだろうか。

児童ポルノの定義にはさまざまなアプローチがあるようだが、要するにこの意見広告を出している側の主張は現実に被害者が出ていないからいいじゃないか、というものである。

僕は児童ポルノという言葉の構成を考えれば現実だろうが仮想だろうが児童を対象にしたものなら児童ポルノなんじゃないかと思うのだが、まあ現実に被害者が出ていない以上問題はないんじゃない?という意見にはおおむね同意である。
子供を持っている親世代が「ろりともだち」を読んだら危機感を覚えるのは当然だと思うが、だからといって規制してよいというのは別問題だ。単に怖い、気持ち悪いでモノゴトを規制することの危険性も考えてほしいものである。

人間は自分たちが思っているほど「人間的」ではない。性的な欲動や暴力的な欲動がその奥底に蠢いている。この二つの欲望は協力なうえ理性より原始的なもので、我々の意識は完全にコントロールすることができない。
加えておのおのがその衝動を自由なままにしておくと、社会は成立しなくなってしまう。
この二つの欲動は得体もしれず底も見えない。人間の聖なる/呪われた部分というわけだ。ゆえに性や暴力は忌まわしいものとしてタブー視され、それに近づく動きには制裁が与えられるようになる。
子供の頃、性にまつわる発言や暴力にかかわる行動を厳しく注意された経験はあるのではないだろうか。

しかし、外部的な制裁がいくら与えられても、性と暴力は魅惑的なものであることには変わりない。むしろ禁止されればされるほど魅力的なものに見えてきてしまうものだ。
恥ずかしいから隠すのか、隠すから恥ずかしいのか?

そこで社会が編み出したのがポルノグラフィーであり、供犠であると僕は考えている。(僕はバタイユは好きだけれども、バタイユのいってることが100%正しいなんてことは露ほども思っていない。)

ポルノや供犠は、性や暴力へ向かうエネルギーを社会に悪い影響を与えないように制御しつつ発散させるために生まれたものだ。例えていえば、ほっておけば氾濫を繰り返す川に放水路をつくるようなものである。
まさしく生-政治の手段というわけだ。(生-権力は時として恐ろしいものであるが、それによって恩恵をうけているというのもまた真である。なので、我々は権力に抵抗するのではなく「うまく付き合っていく」ことが求められている。)

社会がコントロール可能な形にコード化した流れにのせて、蓄積された性・暴力へのエネルギーを発散させるというのがポルノや供犠の目的なのである。

ポルノや供犠においては、直接的な体験を与えられることはない。
そのため、過剰性が求められる。

澁澤龍彦の「少女コレクション序説」は「ポルノグラフィーをめぐる断章」からの孫引きであるが、クロンハウゼンという人(誰だかわからない)はポルノグラフィーの11の特徴として
誘惑、破瓜近親相姦性行為を放任し助長する両親涜聖行為不潔な言葉の使用精力絶倫型男性色情狂型女性性の象徴としての黒人および東洋人、同性愛、鞭打というものをあげたそうだ。澁澤龍彦はここに性的倒錯を付け加えている。
まぁ、現実に実行できる人はそうそういないような強烈な性行為が描かれるというわけだ。

供犠では、たんに動物を殺害するだけではなくて大掛かりな儀式の中で殺害が行われる。

ミトラ教の雄牛の供犠。


ただ殺害するのみならず、その血を浴びたり肉を食べて踊り騒いだり、そういう祝祭的なものが供犠にはともなっていたそうである。

これらはなんのためにあるのかといえば、直接体験として与えられないぶんカゲキなものにしておかないと満足が行かないから、ということではないだろうか。


戦争はよくないと今更叫んでもプロ市民扱いされてしまう昨今であるが、やはり戦争はよくない。とはいえ、現実問題戦争はなくなっていない。また、今のところなくなる気配もない。
むしろ、戦争は社会が近代化するにつれて激烈さを増しているとすらいわれる。
というのも、近代社会は暴力衝動を発散させる機構を排除してしまったからなのではないか。(無論、技術革新によってより破壊力の強い兵器を作ることができるようになったという「下部構造」からの突き上げもあるが)
性については人間の存亡に関わってしまうので、どうしてもある程度は目を瞑る必要があるのに対し、暴力は理想論でいえばなくてもすませることができる。
ゆえに、「人間性」の妄想にとらわれた近代化の過程で暴力は徹底的に排除されることになる。

しかし、本源的に人間は暴力を忘れることができない。
発散する道を奪われてしまえば、たまっていく一方である。
だからこそ、実際戦争が起きれば溜りに溜まったエネルギーがそこに注がれるわけだ。普段成員に「人間的な」生きかたを強要している社会ほど凶暴性を秘めているというわけである。

同じことは、性についてもいえるのではないだろうか?
性的なものを排除しようとする社会は見かけ上健全になるかもしれないが、内部におおきな歪をかかえこんでいる気がする。
キリスト教的性道徳を発展させていけば、「1984年」の世界になるわけだけれども、あれが理想郷だという人はそういないだろう。
(関係ないけど、「1984年」はいうほど重要な作品だろうか?過大評価されすぎている気がする。あれよりは「未来世紀ブラジル」のほうが面白いと思う。)

「人間性」の妄想にとらわれて、聖なる/呪われた部分をおさえこもうとする動きは、「事故なんて起きないはずだから対策はとらなくていい」という原子力政策と根本は同じ発想である。
嫌なことは考えたくもない、だから考えなくていい。
そんな考え方はいつか破局を迎えるし、またその破局にたいする備えがないわけだから破局は破滅的になりうる。

見たくないものはとりあえず見えないところに追いやってしまいたいというのは当然の心理だろう。
しかし、たまには正面から向き合ってみることが必要ではないですか?ということである。

Appendix

・動物的な欲には食欲などいろいろあるけれども、やはり性と暴力は向かう対象として人間が主となるということもあって特権的に扱う価値があるだろう。とはいえ食欲もやはりコード化されており、近代社会ではナイフやフォーク、箸を使ってお上品にものをたべるのが「正しい」あり方とされている。
食事のマナーというのは、食事から動物性を排除したいという思いのあらわれなのである。

・現代はポルノが氾濫しているといわれる。
一方でポルノ・フォビアというのも勢いがあるように思える。
まぁなんというか、両極端にふれすぎなのはよくないんじゃないでしょーか。