読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

光の帝国 下

このような「タレント」 は、テレビのチャンネルも出演者も少数に限られているのにアクセスは容易であるという特質から生まれている。
資金が少数の限られたスポットに集中するからこそ、ドラマなんていうものが製作可能になる。そして役者の数には限りがあるので、そのドラマにはまぁ見慣れた面々が並ぶわけである。
こうして出来上がるほんのわずかな数の番組をみんなが見ることによって芸能人にタレントとしての記号性が与えられ、それが広く流通する。するとテレビ(というかタレント)の広告効果も強化され、ス ポンサーはますますテレビに資金を投入するようになる、という循環が起きる。

全盛期のマイケル・ジャクソンの凄さが実感として
わからないんだけれども、すごかったらしい
参考:マイケル・ジャクソンとコーラ戦争



「ネットメディア※」は膨大なコンテンツの選択肢があり、やる気さえあれば、だれもが発信者になれる。けれどもコンテンツが膨大であるがゆえに、アンテナを張っていない方向の情報はなかなか入ってこない。自分が所属していないコミュニティで何が流行っているかなんてほとんどわからない。
(「24歳、学生です」なんて言っても世間の人はほとんど文字通りの意味でしか理解してくれない。 )

当然資金も一箇所に注ぎ込まれることなく、「安い」コンテンツが大量生産されるだけ。そしてそのコンテンツの記号性はほんの一部の領域でしか通用しない。
所詮ネットメディアは記号として未成熟な記号を粗製乱造するだけの白血病細胞でしかないのかもしれない。
※(単にインターネット上にあるという意味ではなく、既存メディアに対してオルタナティブとしての「ネットメディア」という意味で)

ソーシャルネットワーク上での」オピニオンダイナミクスとか
コミュニティ形成モデルとかの研究にそれほど惹かれないのは
無意識的に考えていたのかも。



僕は「歴史の終わり」は割と妥当な考え方のような気がしていて、民主主義は人々を幸福にする優れた政治形態かどうかはともかくとして「進化的に安定な戦略 」ではあるというのは正しいと思っている。同じように大衆消費社会も進化的に安定な戦略で、今後世界はますますディズニーランド化が進んでいくだろうとも思っている。
この大衆消費社会においてはテレビ、というかタレントシステムはその極致を見せているというか、僕にはこれを超えるものが想像できない。

そういうわけで、テレビはこれからもずっと娯楽の王様であり続けると僕は思っている。(番組の伝送路がテレビ電波ではなくインターネットになることはあるかもしれないが、それは「ネットメディア」の勝利を意味しない。)

Youtubeの人気動画を流して芸能人にコメントを言わせるだけの番組がある。
ただの手抜き、テレビがオワコンな証拠、などと言ってしまえばそれまでなのだが、それが番組として成立していることの意味は考えたほうがよいのではないだろうか。