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卒論の先へ

ここ数週間「月月火水木金金」な生活だったが、ようやく卒論が提出できたので今週は一日休みが出て「月火水木金土月」みたいな感じになりそうだ。(まだいろいろとあるので…)
というわけで、土曜日(2014/2/8)は久しぶりに大学に行かずまったりできていた。

そして、これからはいよいよ社会人…ではなく、大学院生としてさらにもう二年学生を続けることになる。

現在所属している研究室はおもにマルチエージェントシミュレーションとかネットワークとか、そういうことをやっている。工学部といえば機械を作る学部だと思っている人が多いので、説明が非常に大変。
(マルチエージェントシミュレーションってなんだ、という人へ参考
一応研究室公式の見解としては
1.文化の伝播メカニズムの解明
2.経済物理・金融情報学
3.ソーシャルメディアの分析とデザイン
4.集団的知性獲得のためのソーシャルシステムの開発
という4つが軸になっており、前半2つをボスの教授、後半2つを手下の准教授が担当しているという構えになっている。
そして、自分はボス教授のほうで卒論指導を受け修論もボス教授のもとで書くことになる。

卒業論文は割と与えられたテーマにしたがって進めることになるのだが、修士の研究のほうはなるべく自分で決めたいものである。先輩方の中には、修論も与えられたテーマにそってやっている人もいたが自分はなるべく「自分の研究」とはっきりいえるものがしたい。
割と守備範囲は広い研究室で、けっこうやりたいことができそうなので自分にあっているといえるかな?

研究室的にもテーマとして許される研究ができそうで、しかも今現在自分が興味を持っているのをいくつか挙げてみる。

・言語
中ボス准教授のほうはSNSTwitter)の分析などを専門にしているのだが、そういったのとは少し離れて言語そのものの構造に惹かれる。
辞書というのは自己完結的な「シニフィアンの連鎖」であり、言葉をひとつも知らない人にはまったく役に立たない。いくつか「クッションの綴じ目」をもたないと役にたたないものである。辞書にある項目全てを読めるようにするためには、どの程度語彙が必要になるのか?コーパスをグラフとして考えることで何か見えてこないだろうか。
子供の言語獲得において、急速に語彙数が増える「語彙爆発」と呼ばれる現象があるが、パーコレーションの考え方で説明することはできないだろうか?
実際の発話(書かれたものも含めて)では単語の出現頻度がジップの法則に従っているらしいがコーパスというものも冪乗則に支配されているのだろうか?

また、文の「正しさ」と冗長性。
ついさっきの話だが、on/offをon/ofと誤記している記事を見つけた。しかし我々はそれをon/offのミスだなと容易に察することができる。これは言語が冗長性を持っているからにほかならない。
あらゆる言表にそれぞれまったく個別の意味が存在するのであれば、言い間違い・書き間違いをそうと気づくことは難しいはずである。
意味が通じる物ではあるが、子供の言い間違いに対して親や先生は訂正を加える。すると、子供はその言表は正しくないものなのだということを知り、「正しい」文で話すようになる。
この「正しさ」はどのように成立していくのだろうか?

後期ウィトゲンシュタインの基本概念に「言語ゲーム」というものがある。ウィトゲンシュタインは「青色本」しか読んだことが無いのであんまり言えることもないのだがこの概念は非常に妥当な設定だと思う。(春休みのうちに「哲学探求」読まねば…)
この「言語ゲーム」をうまくモデル化して個別の言語ではなく、言語一般について考えることができればいいなぁ、とか思っている。

・免疫
ぼくは「東京大学工学部システム創成学科」といういかにもやばげな名前の学科にいて、大学院は「東京大学大学院工学系研究科システム創成学専攻」というこれまたいかにもやばげな名前の研究科にいく。
というわけで、システムとは何なのかということについて考えている。
自分なりの答えで言えば、システムとは「内部と外部を区別するもの」とでもいえるだろうか。
さまざまな二項機械の連環を見て、観測者が「ここまでは内部、ここからは外部」と定めた時にシステムが生まれる。つまりシステムとは観測者が勝手に境界を区切ってうまれる主観的なものなのだ。
しかし、その「システム」を用いる思考を他人と共有する場合はそのシステム=境界設定にあるていど妥当性がなければならない。一人で勝手な思考を繰り広げている分には勝手気ままに境界をつくっていればいいが、それを他人と共有する際にはそこに境界を設定する意義がなければならない。

この考え方でいけば、境界を自己決定するシステムというものは存在しない。単にそういう境界を妥当なものだと思わせるシステムが存在するのみである。

人体における「免疫」は最も妥当な「境界設定」の一つといえるのではないだろうか。
体内から「自己」以外を排除する機構であり、同じ人間のものであっても「他人」の臓器を移植すれば拒絶反応を起こしてしまう。免疫に攻撃されないものは「自己」であり攻撃されるものは「非自己」であると大まかに考えることができる。
その一方で「自己」であるはずのものを攻撃してしまう自己免疫性疾患や、自己から生まれた非自己とでもいうべき癌細胞を見逃してしまうこともある。自己と非自己の間にも「開かれ」が存在するようだ。

人間は絶対抽象的な思考をすることはできない。数学でさえも、思考するのが人間である以上身体性からは逃れられないそうである。
(不可視の都市の複雑系理論 | 池上高志)人間の思考は程度はともあれ必ずアナロジーによって支えられていると思う。アナロジーによらない自律的な思考は存在せず、シニフィアンの連鎖ならぬアナロジーの連鎖とでもいうべきか。
となれば、「システム」を思考するときに誰もが(?)納得できる妥当な「システム」である免疫のアナロジーを使用することは大変役に立ちそうだ。「言語」の項で述べた「正しい」文と「正しくない」文の区別というのも免疫のアナロジーを用いて考えることもできそう。

また、最近は医学の分野にも結構興味が出てきている。(自分が長生きしたいだけ?)
免疫が「自己と非自己の境界」であるとするならば、「死」というのは絶対的な免疫の喪失とかんがえることもできるのではないだろうか?生きているということはすなわち免疫を持つことなのではないかというのが最近の考えだ。
免疫力をあげれば病気になりにくい、といえば「ためしてガッテン」とか通俗健康番組の話題になりそうなものだが、実際加齢とともに弱くなり変調をきたす(リウマチとか)免疫を補うことができれば超長寿が可能になるだろう。



いくつか挙げる、と言いながら結局2つしか挙げられていないけど…
現状ではこんなところに興味があるかも。
両方共今の段階では興味がある程度にとどまっており、きちんとバックグラウンドを作っているわけでもない。
とりあえず卒論の発表会が終われば自由時間ができるので、勉強しなきゃ…。