哀 Believe

@有明コロシアム

無事に卒業することができました!

という近況報告はおいておいて、今週ついに刃牙シリーズが復活ッッしたらしい。
自分は単行本派なのでこの「刃牙道」はまだどんな内容なのか知らないのだけれども、大いに期待している。

刃牙のいいところは、力とは、強さとは何かという問題について考えさせてくれるところである。
「グラップラー刃牙」の頃こそ一般的な少年漫画的勧善懲悪ストーリー風雰囲気を醸していた。圧倒的な強さで暴虐の限りを尽くす父親に立ち向かう息子…。
しかし、いつの間にか勇次郎イズムは刃牙登場人物たちの間ではアプリオリなもののように扱われてしまっている。

強さとは自分のわがままを押し通せることであるし、その強さを支える金や地位、軍事力といった「権力」 は腕力の代替物であり、強さの始原は「腕力」にある。

「範馬刃牙」で最終的に刃牙は勇次郎に勝利した。(煮え切らない終わり方だったが、まあ一応勇次郎が認めたのだからいいんだろう)
しかし、刃牙は最終的に「父親に夕飯を作ってもらいたい」というわがままを腕力によって成し遂げたのであり、結局勇次郎イズムを否定することはなくむしろそれを全面的に受け入れた上で、勇次郎イズム地平の上で腕力によって自分のわがままを通している。

作者の板垣恵介さんへのインタビューで別件でニーチェについて言及しているのを発見したけれども、刃牙を書く際にもインスピレーションを受けているような気がする。

当初は「リアルな格闘描写」がうけて人気がでた刃牙らしいが、僕が初めて刃牙に触れたのはオリバ対刃牙からだから、むしろ「ああいう」戦闘描写の方に先に触れた結果ハマりこんだ口であるので、あんまり「リアルな」ところが魅力とは映らなかった。

むしろ後期のギャグと紙一重の誇張された強さの表現や格闘描写のほうがおもしろいと感じる。特に無茶苦茶な勇次郎描写は「強さ」の「象徴」としてうまく機能していると思う。

核兵器保有を決断させる筋肉

 「バキ」以降の刃牙はストーリーの整合性よりも板垣先生の「そのとき自分が何を描きたいか」ということを優先しているという指摘がよくなされる。自分もその意見には同意だ。
このことは何を意味しているかというと、刃牙はそのときの板垣先生の心の風景を描いた作品であり、象徴主義的な作品なのである。
ストーリーの整合性はないけれども、それを書いている時の板垣先生の筆に込める力強さといったものは我々の心に迫ってくる。

また「グラップラー刃牙」幼年編で描かれる父-母-子のオイディプス三角形な関係も、現実ではありえないほどに程度を誇張して描いている。

ここでついに母として目覚めてしまう

そもそも刃牙全体からして、要約してしまえば強い父親とそれを超えたい息子の関係というわりとありふれたものを誇張して描いているだけである。
描写がエキセントリックであってもテーマ自体は我々貧弱一般人もほとんどが抱える問題であり、それをさまざまな象徴を用いて語るのが刃牙なのである。

ありがちなテレビドラマのように、それをそのまま映像化しても見ててこっ恥ずかしくなってしまうし、面白くもない。それを象徴を用いた形で表現することによって、ひとつの神話(SAGA)になるのである。