埼玉の味といえば…?

難解な思想家、として思い浮かべる人も多いであろうラカン。そんなラカン理論の解説書「生き延びるためのラカン」がとてもよかった。

生き延びるためのラカン (木星叢書)
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もともとラカンについては「何を言ってるかよくわからないし、ろくなことを言っているようには思えないなぁ」というふうに考えていたけど、「何を言ってるかある程度つかめたけど、やっぱりあんまりろくなことを言っているようには思えないなぁ」というふうに認識が変わった。
けっきょくろくなことを言ってないという結論なのかよ、という話ではあるが…。

ラカンとバタイユはコジェーヴのヘーゲル読解講義に一緒に出ていた仲でもあり、そのころはかなり仲良くもあったらしい。その後いろいろあって(NTR!)関係がどうなったのかは知らないが、この二人の人間の「心」についての認識は相当似通っていると思う。

精神分析がさまざまな症状を解釈する方法、これはもうコジツケにしか見えない。
けれども、「人間のこころは言葉でできている」というのは重要なポイントであると思う。
普段はなにか意味が先行していて、人間はそれに「名付け」を行うことで言語を創りだしたと考えがちだが、実のところそうではなくことばという「音列」、または「文字列」が先行していて、人間のこころはそれに支配されているという考え方はもっともだと思う。ただ、これがこころのなかの意識的な部分だけの話なのか心全体がそうであるのかは微妙なところであるだろうが…。

ただ、そこから先はちょっと…理解不能。僕は遺伝子が全部決めているんだ!と考える程唯物論者ではないが、人間は本能を持っていないというほど人間を特権視することもできない。
精神分析は「解釈」ではないというが、紹介されるさまざまな事例と原因をみるとどう見てもコジツケである。これに板垣恵介の絵がついていたら信じこまされていたかもしれないが、文章だけだと説得力はないぞ。
そもそも精神分析のかなり基本的な部分であるエディプス・コンプレックスや<去勢>、これからして無理があるように思う。フロイトの生まれ育った(または当時の一般的な)家庭が偶然エディプス的な家だっただけであって、人類全体に適応できるものではないと思う。また、新生児ってそんなに両親の裸や自分と同年代の異性の裸をみるものなのだろうか?そもそも子供の視力の発達は結構遅かったような…?

話を元に戻すと、こころが言葉で出来ており、意識がアクセス可能なのは言葉によって記述された世界をさらにイメージ化した世界であり、決して「世界そのもの」ではないというのがバタイユとラカンに共通しているところだと思う。そして死ぬ瞬間こそが人間が現実世界に触れることの出来る瞬間だということも共通。
(言葉にできない素晴らしい景色、なんて表現があるけれども、残念ながらあなたが見ているのは一旦言葉にされて、それを再構成したものなんですよ。)

そこから先が正反対で、ラカンの方は「そういうもんなんだからしょうがない。我々は真の世界なるものに触れることなんか決して出来ないんだから、その前提のもとで社会に適合していこうよ」ということだろう。(それで治療ができているのかは正直知らないんだけれども)実益重視である。そもそも精神分析の治療と言うもの自体が「今の社会」でうまく生きられるように患者を適応させることだ、とどこかで読んだ気がする。

一方バタイユは言葉による認識を超えた「現実」を追求していたのだと思う。「生き延びるためのラカン」の前に「現代思想の冒険者達」というシリーズの「バタイユ」の三回目の再読をしていたんだけれども、バタイユのいう「内的体験」とはラカンのいう「クッションの綴じ目」をほどくような体験なのではないだろうか。バタイユもバタイユでちょっと頭おかしめなことを言っているが、バタイユの思想を記述するのにラカンの提案した用語を使うのはとても良い気がする。
ちなみに言うと、バタイユの理解も全然浅かったと気付かされた。 やっぱ生涯勉強ですね。

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そういえば、「美しい国 日本」なんていうのは対象aなんですね。空虚な言葉だからこそ、いろいろなものを投影できるという。
「生き延びるためのラカン」を書いた斉藤環さんは「ヤンキー文化」 についての本を出しているなど、ここ数年一部で「ヤンキー」がホットである。

ちなみにタイトルの由来はこのCM。(五百羅漢)

テレ玉の「水曜どうでしょう」を録画すると必ず入っている。