夢は眠りを守るためにある [映画] 君の名は。

気がついたら見ていました。はい。

 手短に感想を言うと「見ている間は楽しめたわけだけれども、手放しに褒められるかというかというとそうではない。」という娯楽映画を見た後90%くらいの確率で言ってそうな感想。

これだけヒットしてネット上にも記事が溢れてるのであらすじを述べたりは不要だと思う。なのでいきなり本題に入ってしまう。

倒錯的映画ガイド2、見に行きたいけどめんどくさい


  「『何か』を探し求めている」。これは別に映画の中の人物だけじゃなくて、消費社会に生きる我々みながそうだと思う。
毎日あらゆるメディアから膨大な情報を流し込まれ、「世界には自分が持っていない<もの>(商品にかぎらず、経験や知識も含めて) 」があふれていることを頭に叩き込まれる。
世の中にはこんなすごいものを持っている人がいます、こんな経験をつんだ人がいます…。(当然マスメディアに取り上げられるイコンとなりうる人は「普通」じゃない)

その情報の洪水のもとで、我々はこう思わざるを得ない。「自分は何者にもなれていない。きっとあの人と同じ〇〇を持っていれば/経験すれば、何者かになれるに違いない…!」

ボウリング・フォー・コロンバインでマリリン・マンソンが述べているように、広告は我々に不安を与える。そして、「これがあればあなたの不安は解決です!」という救済の手を差し伸べてくる。そして哀れな我々は消費行動へと駆り立てるのだ。

しかし、それは単なる一時しのぎにすぎない。すぐに「あなたの持っている〇〇は本物じゃありません。本物はこっちですよ!」というメッセージが飛んでくる。
「不安」から解放される術などなく、与えられた選択肢は「買わずにずっと不安と向き合う」か「買って次の不安が芽生えるまでつかの間の休息を得る」のどちらか。

本題に戻ろう。
何かをずっと探しているような感覚。けれども、それが何か、思い出せない。そうしたモヤモヤ」、これは瀧くんだけでなく誰もが持っていると思う。
しかし、残念ながらこの「何か」は強迫的な広告によって植え付けられた「不安の影」であり、実際は空虚な対象でしかない。

しかしこの映画のラストでは、その「何か」の実体が見つかる。 ここに欺瞞を感じるというか、「信じていれば夢が叶う」とか「自分探しの旅」と同じ系列のニオイを感じた。

大衆エンタメ作品として、大衆には消費社会の夢を見続けてもらわなければならない。
その眠りを守るために新しい夢を見させる。
それが「君の名は。」である。

(余談だけど、個人的には『ファイト・クラブ』と対比的な構造を持っていると思う。あっちではタイラー・ダーデンを殺害することで消費社会の夢から覚めるのだ。)