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小並感

WOWOWでようやく「不思議の国のアリス」を録画することができた。
今年の3月初め頃、2月のチャンネルガイドを見ながら録画予定の番組をリストアップしていたのが懐かしい。

諸事情あって「どの」やつかを画像で見せることはできないんだけれども、多分みなさんがイメージしているそいつだと思う。(ディズニーの法務が凄いというのは聞いていたけど、コナミも相当なものらしいですね。「そいつ」で思い出したわけではないが…)

コナミってスポーツ系のばっか作ってるイメージだったけど
昔はアクション、シューティングで有名だったんですねぇ



記憶に残っている限りでは見たことないので、実際にか実質にかはともかく初めて見た。
当時のディズニーがどのくらいの規模だったのかがわからないんだけれども、1951年時点でアレというのは、そりゃあ戦争にも負けるなぁという感じである。大昔のディズニー作品の作画は北朝鮮に下請けで投げてたという話だけど、これもそうなんだろうか。(そういえば両方とも夢の国ですね)


まーでも、正直あんまりおもしろくなかったというか。(あと、今風の絵に慣れてるのであんまり可愛いとは思えなかった。「アナと雪の女王」がヒットしたのはそういう理由もあるような気がする。絵柄的には「シュガー・ラッシュ」くらいからそういう需要も満たせそうな感じだけれども、さすがにあれはいかんでしょ)

あの面白さはやはり「ことば」で綴られていたからこそだったんじゃないかと思う。「猫のない笑い」を無理やり映像化しようとするとああせざるを得ないというのはわかるんだけれども、本質的にあんまり意味がなくなってしまうと思う。
「笑い」というのはこの場合表情の状態であって、表情というのは実体が存在するわけではなく、物理的な実体を持つ顔とその上に張り付いているパーツ(=媒質)が基準となる状態からどように移動・変形したかということになる。「猫のない笑い」というのはその笑いの媒質がまったくないのに状態だけがあるという意味であって、猫全体の姿は見えないのに目と口だけが見え、それが笑いの表情を作っているというのはポイントがずれている。

夢というものは映像で構成されていると考えがちだけれども、夢をよく思い出してみると途中で同じ人物が別人になっていたり舞台がまったく変わってしまったりしているのに気がつく。しかし夢の中の自分はそれをオカシイとも思わないし、そもそも起きて反芻するまで気がついてすらいないことも多い。
登場人物XがAからBに途中から変わっているんだけれども夢の中の自分にとっては変わる前はXがAであるのが当たり前だし、変わってからはBであることが当たり前だし変わる前もXがBだったように話が進んでいる。でもこれは人物Xは最初からAとBの二重性を持っていていて、各場面でどちらとして見えたかという話なのではないだろうか。

夢はもともと記号の連鎖であって、思い出すときに初めて視覚的表現が与えられるものなんだと思う。なので、いくつかの場面についてスナップショットを作ることはできても、全体として映像化できるようなものではない。 「猫のない笑い」が夢に出てきたとして、きっと夢の中の自分はそれを不思議に思わずに受け入れているはず。起きて初めてその異常さに気がつく。
それを無理やり整合性のとれる形で映像化しようとすると、本来複数の役割の重ね合わせであるはずの記号をどれか一つの役割に固定化しなければならず、「普通のお伽話」になってしまっているということなんだろう。

そもそも「不思議の国のアリス」自体が映像化したらもともとの良さが必ず死ぬ作品であると思うんだけれども、なぜ幾度と無く映像化が試みられているのだろうか。(見たことないけど1903年にもされてるらしい)
シュヴァンクマイエルの「アリス」はロリータコンプレッサー要素と東側感要素でいい感じに魅力的になってるけれども、あれはそれほど原作に沿っているわけでもないし…。