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社会は厳しいものでなくてはならない 下

実在とは何かという問題は考えずにいう(素朴実在論的な)と、物体が実在のものなのかヴァーチャルなものなのか、という違いは確かに存在するけれども、構築する関係性の各層にはリアルもヴァーチャルも存在しないと思う。

「夢の国」という言葉があるけれども、むしろ一般に言う「現実」
のほうが夢の世界に感じられているのではないだろうか?



問題は両者をともに「ヴァーチャル」とか「仮想」ということばで表してしまっているところから混乱が生じているのではないだろうか。

この多くの層の中からどれを基盤とする<現実>と選びとるかは本人の自由である。他人の権利を侵害していたり、本人が苦しんでいる場合をのぞいて他人が口を出す話ではない。(精神分析におけるオイディプスの三角形はある種抑圧的なものであるが、フロイト本人は精神分析は患者の苦しみを取り除くときだけ関与するべき、みたいなことを言っていた。(多分))

ウィーンのフロイト博物館にいったことがあります。

しかし、世間一般にいう<現実>は不合理で辛く厳しい物でなければならないようだ。

この集団的な思い込みこそが<まとも>に生きていない人びとを抑圧しているのではないだろうか?自分にとって現実が辛く厳しいものであったからといってそれを他人にも強要するのはお門違いである。

そもそも人間の脳というのは「リアル」と「ヴァーチャル」を区別しているわけではない。単にテレビで見たことあるだけ、人から話を聞いただけの場所に自分で行ったことがあると思い込むことがある。(細かいことは言わないけれども、過誤記憶というもの。でも、もしかしたらこの「過誤記憶」についての記憶が過誤記憶かもしれない…。)

「リアル」や「ヴァーチャル」という言葉は意味が定まっていないからこそ自分の「リアル」に求めるもの「ヴァーチャル」に求めるものを勝手に投影できる対象aなのだ。

なぜ人は辛く厳しいリアルを求めるのか?それは「リアル」という鞭を使って自分の気に入らない=リアルに適合していない他者を攻撃しようというサディスティックな欲望なんだと思う。

結局自分でも言葉に振り回されて錯綜してしまった感じあるが、まとめると「無関係の他人のことで心を惑わされるな」※ということだろうか。

最近考えているのが、「『いい人』が争いをもたらす」ということなんだけども
シェリングの住み分けモデルみたいにふつくしく説明できたりできれば嬉しいですね