神無き時代の享楽


ニーチェによれば、西洋哲学の伝統は現世=<偽の世界>の否定と来るべき天の国=<真の世界>の希求であるという。グノーシス主義なんか極端な例ですね。
しかし、これは西洋哲学のみにいえることではなく、矛盾と非合理にあふれた現世を「耐える」ことによって神の国にいけるなんていうのはキリスト教だけでなく(多分大乗系の?)仏教やイスラム教も同じようなことを言っている。つまり、現世の否定と来るべき天の国の希求というのは人類に普遍的な考え方であったと思われる。

天国、イデア界、共産主義国家…
「本当の自分探し」とも通じるものがある


  

余談になるけれども、イスラム原理主義にくらべてキリスト教原理主義はそれほど勢いがあるように見えないのはキリスト教文化圏が先に近代化を成し遂げ豊かな資本主義社会を作り上げたのと無関係ではないだろう。現世の苦しみが少なくなればなるほど、来世への期待は小さくなるのだ。


おととい、東京ディズニーランドを訪れてきた。前回訪れたのはまだベイブレードが流行っていたころだったので、10年以上前になる。つまり、何も覚えてないので実質初めてといってもいいくらいだと思う。
(ちなみに言うと、僕はミッキーマウスよりもバッグス・バニーのほうが馴染み深いような気がする。カートゥーンネットワークをよく見ていたので。)
ディズニーランド内部は複数のテーマパーク※に分かれており、入り口から左手方向に広がる「未開の地」、「西部開拓時代」、「小動物のすみか」をテーマにした3つはそれぞれ関連しているけれども、それ以外についてはなるべくお互い見通しにくくなっているようだった。ディズニーランド内部から外が見えないというのはよくきくけれども、内部の見通しもあまり良くないと感じた。

先が見えない=フロンティアがあるということなのかもしれない。
「ジャングルクルーズ」は「地獄の黙示録」を思い出させる




※テーマパークと遊園地という言葉は混同されているけれども、テーマパークというのは太秦映画村みたいなものになるし、遊園地といえば上野動物園前の小規模なものも含まれる。全く遊園地要素のないテーマパークはないような気がするが、テーマパーク要素のない遊園地はある。
国内でこういう大規模アミューズメント施設の二強といえば東の東京ディズニーリゾートと西のユニバーサルスタジオジャパン(ちょうど僕が関西に引っ越すくらいで出来たような気がするけど、そのころは遊園地要素はかなり少なく、昔の映画の再現セットなど映画好きのための場所という色が強かった気がする。これも大昔の記憶なので確証は持てないが…)


ひとはなぜテーマパークに行くのかというと、テーマパークのほうにこそ<真の世界>を感じるからではないだろうか。テーマパークでの体験は生きているうちに体験できる「救済」である。普段<偽の世界>でせっせと労働し蓄財をすることで<真の世界>で報われるという図式はまさしく「救済」だ。
要するに現実世界を忘れて夢の国に遊びに行くのではなく、(辛く厳しい)夢の国からたまに現実世界に帰っているということにならないだろうか。

こういう「古典的な」ものもあった


オンラインゲームにはまりこんでいると「仮想世界に入ったまま現実に帰って来られない…」とか言うけれども、いったいどの世界が「現実」なのかというのは考えてみるとわからなくなってくる。
遊んでいる時間よりも働いている時間、勉強させられている時間といったときのほうが「現実」であるとだれもが思い込まされているけれども、それははたして本当だろうか?

この門のどちらが現実なのだろうか。



…というようなことをこれまで思っていたんだけれども、実際訪れてみると自分はここの何を知っていたのだろうか、と考えなおさせられた。
想像していたよりもはるかに大きいスケールで、いろいろなものがあった。消費社会という言葉が軽々しく使われているが、自分は消費社会の何を知っていたのか?


自分の中で近代が終わった一日だった。