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聖なるもの

バイト先で「東京大学新聞」をとっているので、一面くらいには目を通す。
ちなみに今週号のトップ記事は「UTaskとUT-mate統合へ」であり、本郷でutroamのアカウントをもらうために苦労した身としてはちゃんとECCSのアカウントも統合されるのか気になるところではある。
ちなみに、2016年度から運用開始だそうなので、ぼくは留年しない限り使うことはないだろう。東大の教員になれればいいんだけどなー。

そんな東大新聞にも「天声人語」的なコーナーがあり、その名を「俳調」という。
今週はクリスマスについて書いていた。
要約すれば
クリスマスは本来キリストの誕生日を祝う宗教行事である。
日本人はそんな宗教行事を遊び感覚でやっている、敬意が足りない。
「記者には神聖な宗教行事があまりにも宗教色を失い過ぎている気がしてならない」
ということだそうだ。まぁ、量産型の批判である。
まず思ったが、筆者のいう「宗教色」とは、やはりキリスト教的なイマージュなのだろうか。(修道士的な?)
この発言は正直原理主義ではないだろうか。なにも宗教はキリスト教だけではないのだよ、と思ってしまう。
なんだか、禁欲的な現代キリスト教こそが本物の宗教であり、人間的でエライ宗教なんです。
そこから離れれば離れるほど下品・動物的で原始的な宗教です、という感じがした。

個人的には宗教的なものの第一の概念たる「聖なるもの」は人間の中に存在していて、それとの付き合い方を考えるのが宗教だと考えている。なにも神様がいなくても、十分宗教は成り立つだろう。
そして、その聖なるものは決して綺麗で清らかなものとは限らず、人間の理性にとっていえば下品で醜悪なものも含まれているだろう。
むしろそういった下品で動物的な部分を無視して忘れ去ろうとしているキリスト教徒のほうが、聖なるものを見失っているだろう。


シュルレアリスム第二宣言におけるブルトンバタイユ評には
バタイユ氏は、この世で最も卑しく、最も意欲をそぎ、最も腐敗に満ちたものしか考えたくないと表明し…」とあるが、ものごとが見えていないのはブルトンのほ うでバタイユはそういうものしか考えなかったのではなく、遠ざけられていたそういうものも考えなければならないと考えていたのである。
(参考サイト: 聖なる文体 詳しくはここを読んで)


聖なるものは美醜とは関係のない純粋なピュイサンスなのだ。(注1
我々は強いピュイサンスを感じた時に「畏れ」を抱く。
自分の中のピュイサンスは欲動に受肉する。(単なるポテンシャルエネルギーが向かう先を見つけて力学的エネルギーに変化するという…イメージ。円錐台の上からボールを転がすような感じ)
そこに我々はあとから美しい-汚い、よい-わるい を導入しx,y,z…各種の軸を導入するのだ。
ベンヤミンが「神的暴力」と「神話的暴力」の差異について『暴力批判論』で述べているが、この神的暴力は「聖なるもの」に近いかもしれない。

人が何か合理的な理由なしでなにかアクションを起こしたのならば、多少なりともその行動は聖なるものになる。
金銭のために一所懸命はたらくのは合理的行動だが、必要以上の金銭を一所懸命つまらない仕事を我慢して頑張るほど求めるのは一種の宗教だと思う。
拝金主義というのは通常揶揄する時に使う言葉だが、そういう人は本当の意味で金銭を信仰しているのだといえるだろう。

12/24 21:00- 12/25 3:00は性の6時間なんていうコピペが有名だけれども、あくびをしながら聖書を読んでいるより性的合一してるほうが聖性が発現していると思うのだが、どうだろうか。
ぼくにとっては新約聖書よりも「千歳烏山第二出張所」の同人誌の方が「強」い書物であることは疑いようがない。
特に「翠だらけ」は電子化したのとは別にちゃんと紙のものもとってあるくらいだ。

もちろんR18なのでよいこは見ちゃダメ!


そもそも、クリスマスをはじめにパクったのはキリスト教ではないか。
ミトラ教の行事をパクってオリジナルのものに仕立てておいて、日本の百貨店業界がパクるのは許せんと言うのは傲慢じゃない?

ちなみに、ぼく自身はアニミズムに近い考え方をしていると思う。
シャーマンキングも好きです。(道蓮がすきです)
みんなも小学生の頃、箒でゴールデン中華斬昧やったよね?

注1)
ピュイサンスとか強度とか、実はいみちゃんとわかってないんだけど、かっこいいからつい使っちゃいますね。puissanceとpouvoirだとピュイサンスの方が潜在的なのにたいしてpouvoirのほうが顕在しているイメージがある。
puissance-ダイアグラム、pouvoir-可視性といった感じなのだけれども、どうなのかしら。