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親密さの病

最近読んでいる「われら勝ち得し世界」のサブタイトルは「セクシュアリティの歴史と親密性の倫理」というものである。
この本はかつては不可分であった性・愛・家族がそれぞれ独立したシステムとして分離し、それぞれが多様な形態を獲得しつつある歴史を肯定的な立場から記述しているものだ。(まだ全部よんでない)
おもに電車の中とか飛行機の中で読んでるだけだし、かなり日数をあけて読んでいるので内容の記憶に自信がないのだけれども、、まったく的はずれなことは言わないはず。

 


かつては性交渉を行うことと生殖行為は一体であり、つまり性交渉を行うこと=家族となること=お互いを愛すること、という図式が成り立っていた。しかし経口避妊薬の登場により、性交渉を行うことと生殖行為が切り離されて考えられるようになった。(とはいえ、性交渉なしに生殖を行うことはできない。これまでは性交渉=生殖だったのが性交渉⊃生殖行為になったということにとどまるが。)
このもとでは、避妊を行った異性間性交渉と同性の性交渉はともに享楽を主目的としている点で等価となる。異性間は生物として正しいからOK、同性間は自然の摂理に反しているからNGという論理の説得力は低くなる。
生殖行為を伴わないということにより、家族になることとお互いを愛することも独立しうる。それを加速させるのが社会環境の変化であり、かつては夫が金を稼いで妻が家庭を守るという家族制度により、経済的に「妻」とならざるをえなかった女性も自ら生計をたてることが可能になる。生殖が行われたからと行って、父親と母親が家族になる必要はないのだ。

性・愛・家族の三位一体に変わり、現代人の私的な拠り所となるのが、「親密圏」である。なかなか聞き慣れない言葉でもあるかもしれないが、次のページを読めばだいたいつかめると思う。

 
超かいつまんで言えば、友達のことだ。ただの友達というよりは、「親友」レベルのこと。


家族や地縁のように生まれつき与えられている関係性ではなく、自由な個人が自ら選んで獲得した関係性、それが親密圏である。というと、啓蒙的で手放しによいものと思えるかもしれない。もしそう思ったとしたら、あなたは幸福である。

自分のような存在にとっては、そうではない。
本当に他人と関わりがないぼっちとかひきこもりではないけれども、自分には留保抜きに友達と言える存在はいないし、もう今更できることもないだろう。
人間関係というのはお金以上にRicher get richerの原則が強くきいてくる。「広く浅く」か「狭く深く」か、ではなく「広く深く」か「狭く浅く」なのである。世界に携帯電話の基地局のように張り巡らされている親密圏の隙間で生きていくしかないのだ。

経済的資本、つまり貧富の格差に比べて注目されづらいけれども、社会的資本の格差もますます拡大している。その上、経済的格差以上に「自己責任」で片付けられやすい。
家族関係は良好なほうであると思うんだけれども、「え、家族にこだわるなんて中世ですか?君自身で獲得した親密圏は?」って言われているようでなんとも。

古い因習から開放され、自ら望む関係を構築できる社会。そこには数多くの選ばれなかった人々がいるのだろう。