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野蛮な専制君主機械

彼らは運命のように到来する…、彼らは、稲妻のすばやさをもってそこに存在する。あまりにも恐ろしく、あまりにも唐突に…。
アンチ・オイディプスより

山の辺の道の神社の代表格、「大神神社」ははるか昔の原始神道の時代から続く三輪山信仰が固定的な拠点をもつようになって誕生したと考えられており、日本最古の神社ともいえる存在である。
また、元伊勢のひとつでもありヤマト政権と深い関連がある神社でもある。

そのせいかは知らないが、参拝者休憩所にかなり右翼的(皇道派的な右翼であって統制派的なのじゃない)な政治的発言を掲載している冊子がおいてあったりした。まぁ旅の記念だし、と思ってとりあえず全部持ち帰ってホテルでパラパラながめていたのだけど、まぁ理解できない。
(ぼくは基本的に君主制廃止論者だし、当然天皇制廃止論者でもある。天皇陵にわざわざ観光にいったのも民族主義的な熱情に動かされたわけではない。)


結局のところ人間が理解し合えるなんていうのは幻想だし、そもそも自分のことすらわからないものではあるが、特にこの類の人達は理解できない。

皇位は天壌無窮だとか、天皇家の日本は天皇家を宗家とする大家族のようなものである、とか…何言ってだこいつという感じ。


そもそも君主のもつ「高貴さ」は収奪によって生まれるものである。
 専制主義君主の誕生前夜には、暴力による富の収奪が行われる。この段階ではいまだ「豪族」である。
豪族状態で十分に富を蓄積することができると、次にその富から派生する力の源泉を偽装し始める。もともとは収奪によって蓄えられた力であるが、その源泉があたかも「外部」由来のものであるかのように欺瞞しはじめる。(王権神授説、とかね)ここで「豪族」は「王」となる。

「豪族」と「民衆」の違いは量的なものにすぎなかったのだが、ここで「王」と「民衆」の関係になることで量的な差異が質的な差異に転化するのだ。

しかし、ここで気をつけなければならないのはその質的差異はあくまでも見せかけのものであり、実際には収奪によって生まれた量的差異しか存在しないということ。
王の至高性はしょせん偽りの至高性でしかないのである。

このもとで、法はあくまでも民衆に対して適応するものであり王は法の体系からはみ出した人狼である。『政治の美学』第二章 政体論 p200からアガンベンの言葉を孫引きすれば、
アガンベンは、処罰権を「国家のまさに中心に生き延びた自然状態」と呼び、「主権者の人格には、狼男が、すなわち人間に対して狼である人間があり、これが国家の内に安定したしかたで住みついているのだ」の指摘している。
とあるが、このような王と民衆の羊飼いと羊のような関係は決して本源的なものではなくもともとは暴力の量的な差異によって生じているものにすぎない。
 (だから制限君主制なんてものは言葉からして矛盾しているし、人間宣言をした天皇なんてものに存在価値はない。)
 
ぼくはこのように考えているので、はっきりって皇位は天壌無窮とか言ってる人をみると、この人は自分で考える能力がかけているんじゃないだろうかと思ってしまう。

しかし、こういう問題というのは結局のところ個人の快不快という価値判断が根底にあって、みんな論理だててそれを正当化したいだけ。
だからむこうからしてみればこっちの方が頭のおかしい奴なんでしょう。
ま、それはそれでいいんですが。