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魂の牢獄

ある日ぼくは「雪陽炎」というサークルの同人誌を読んでいた。
そのとき、ふととんでもないことに気がついてしまったのである。



腋毛だとかBBW(参考)だとか、これらは相当苦手としていたものではなかっただろうか?それなのにどうして自分は今これを読んでいるのだろうか?

答えをとっとと言ってしまうと、この作家(KANZUME)と、あと小澤零人作品に触れてからということになるだろう。

僕はラカンはよく知らないのだが、ラカンのいう「人間の欲望は他者の欲望である」 という言葉を実感できた。これはもっと「社会的な」領域での話、たとえばファッション、だと思っていた。(服を着るというのは単に外界から身を守るという話でなく、何らかのメッセージ性を帯びている。高そうな服を着ている人を見たら、きっと金持ちなんだろうなと思うし、ジーンズにチェックシャツを着ている人をみたら…)
こんなな私秘的な、というか本能的であまり社会性のなさそうな領野であっても、我々の好みというものは内的存在ではなく外部によって規定されているのである。(世の中にはロリコン自慢だとか変態自慢をしたがる人もいるけれども、これはどういうことなんでしょうか。)

人類は記号を操る能力を得たことで、あらゆるものを記号の集積物としてしか見られなくなってしまった。(というよりも、「意識」というものは記号なしでは成立出来ないと思う。)
記号というのは言語と同じく私的なものではありえない。記号が記号たりえるには、誰かとその記号を共有していなければならないのである。
そして欲望は記号に向かうものである以上、欲望の対象が私的であることもまたありえず、欲望は我々が実際に欲望する前にすでに規定されている…
ということになる。

人間が自由意志だと思っているものはただの他者の欲望の編成体にすぎないのである。
しかし、ではその欲望はどこで生まれたのか? 先ほど述べたように個人の内面から全くもって生まれ得ないのであれば…?