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マダム・エドワルダについての発見

Workflowyに残っていたものをサルベージし、加筆修正を加えて公開する企画第一弾。多分書いたの夏頃だと思う。 最近考えたこととかちゃんとアウトプットしてないなぁと思い、心機一転頑張ることにしたい。

では、スタート。

バタイユを初めて知ったのは5年くらい前だろうか。

バタイユの著作では、眼球譚がもっとも有名なのかもしれないが、個人的に眼球譚はあまり好きではない。作中では卵と眼球の類似性が示唆されるわけだが、ということは多数の割られた卵は多数の眼球である。「見られる」のが好きな人は眼球譚も好きなんじゃないかと思うんだけれども、自分は駄目。無数の視線が自分たちの行為に注がれていると考えると…。変な表現かもしれないけど、「湿度の高い」小説という感じ。読んでいてもわもわしてくる。

それよりも、マダム・エドワルダのほうは好きだった。 読んでいるとなんだか夜の街を徘徊しているような、そういう孤独感と開放感を感じることができる。(夜の街を徘徊するのも好きなんだけれども、あまりいい趣味ではないかな) 家々に明かりがついているのを見ると、自分の全くあずかり知らぬところで無数の人々が生の営みを行っていることを痛感する。そして自分とその無数の人々のほとんどは一生に一度も巡り合わぬままなのである。

ちょっと脱線したのでマダム・エドワルダの話に戻ろう。

こっちのほうも実質ポルノ小説なわけだが、不思議な事にいやらしい感じがあまりしないというか、「乾いた感じ」がする。眼球譚のほうが粘っこい感じがするのとは対極的に。 そんなマダム・エドワルダを急に読み直したくなってもう一度読みなおした。

読み直したことによって直接新しい発見があったわけではないんだけど、発見は思いもよらないところからやってきた。

読み終わった後で文庫をデスクの上に置きっぱなしにしていたら、興味をもった人がいた。バタイユについては知らなかったようだけれども、あらすじや中身をぱらぱら見た後、「読んでみたいから貸して欲しい」とのこと。

その人が読んだあとに感想?を話してくれた。感想とはいっても主観的な感想ではなくて、物語の構造を見つけたという話だった。良かった悪かったといった価値判断が全然入ってなくて、こういう「本の感想」もあるのかぁと変に感心してしまった。その感想を要約すると、「はじめ主人公は裸であるのに、段々と裸ではなくなっていく。一方でマダム・エドワルダは最初から最後までずっと裸である。ここに対比構造があると感じた」という感じ。

これを聞いてひらめいたんだけど、この物語は主人公が世界との隔絶に気がつく物語なのではないだろうか。

主人公ははじめ自分は世界に対して開かれていると思い込んでいたわけだが、真に世界に対して開かれているマダム・エドワルダとの出会いによって自らの孤独に気がつく。それを「服を着る」ということで暗示しているわけだ。世界は我々が思っている以上に我々に興味がなく、よそよそしい存在なのである。 物語後半ではマダム・エドワルダとタクシードライバーの行為を傍観しているわけだが、あの光景は世界は自分がいないところでもうごいているという当たり前ながら受け入れがたい現実を表している。

これは前述する「夜の街を徘徊する」行為との類似性がある。 結構自分は感覚的なものの考え方をするほうなので、小説に対して構造を見出したりしないんだけれども、そういう読み方を知ることによって新しい発見が得られるのだなぁと思った。

本をみんなで読む輪読会とか、やったことないしやる意味もよくわかってなかったんだけども。他人の読み方、考え方を知るというのはいいことなんだなーと感じました。(小並感)

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)