現実としての保毛尾田保毛男

(またしても)旬をのがしてしまったが、先日の「保毛尾田保毛男騒動」について。

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この記事を書くきっかけは騒動とは全く無関係だったりする。ふつーに昔のバラエティ番組をあさってたら偶然に「保毛太郎侍」の動画を見てしまい、ああそういえばちょっと前話題になったなと。

倫理的にいえば、もちろん性的思考を笑い者にすることはよくない、という話になる。

でも、果たしてそれを言うことにどんな意味があるのだろうか?

現実として、2017年の今保毛尾田保毛男のコントを見て笑える自分のような人間が存在するわけなのだ。 そういう現実のもと、保毛尾田保毛男に対してどう向き合うべきなのか?

まず言えるのが、保毛尾田保毛男は「男性同性愛者である」だけで面白いわけではないという点である。 もちろん、ウーマンラッシュアワー村本が言うように、「ゲイを笑いもの?バカか?想像力なさ過ぎだろ、あれはみんなゲイを笑ってるんじゃなくて石橋貴明って人を笑ってる。」というのはさすがに無理がある。保毛尾田保毛男がおもしろいのは、保毛尾田保毛男がゲイだからだ。

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しかし、保毛尾田保毛男は「ゲイである」とだけで面白いわけではない。 ゲイであることが欠かせない前提条件になっているのは否めないが、面白さの直接的な原因は誇張されたくねくねした体の動きであり、本来人前で言うのがはばかられる下ネタである。 別に保毛尾田保毛男がゲイであること以外は何も特徴のないキャラクターであったとすれば、面白くもなんともない。

ゲイであることを笑いの要素にすることは一切許されない、ゼロトレランスだ!と言われてしまうとごめんなさいというしかないわけだが、ここに保毛尾田保毛男を「活かす」ポイントが有るのだと思う。

保毛尾田保毛男は「無理解な人々」がゲイの人々に対して持っている「気持ち悪いホモ」のイメージをキッチュに詰め込んだものである。 だったら、ゲイであること以外の「保毛尾田保毛男っぽさ」を避けることで「気持ち悪いホモ」にならないことができる。

ゲイであることは、現実問題としていまだに奇異の目で見られ、それだけでネガティブな評価を受けがちであることは認めざるを得ない話だと思う。これは今後社会がどうなっていく「べき」かとは無関係に、今そうなって「いる」という話。

そこでは、正義をふりかざすのではなく、相手の出方に合わせたしたたかさが必要なのではないかと思う。

というと、なんか差別されるのは被差別側に問題があると言いたいのか!みたいなおしかりが来そうだけど これって別にLGBTとかに限らず、人と付き合っていく以上誰にでもおきうる問題である。

相手によい印象を持ってもらうため、服装は清潔感のあるものにしようとか笑顔で相手に接するようにしようとかと同じ話なんじゃないかと思うわけ。

自分に与えられ、交換できないカードというのは誰にでもある。 それを生まれつきのものだから気にしてはいけないという。 でもそれで権利は得られるかもしれないが、好感を得るのは難しいだろう。

相手に好感を持ってほしいのであれば、ゲイであることとは無関係に魅力的な人間であろうとする努力をする必要がある。 その際、保毛尾田保毛男はゲイがこういった特徴を備えていると「気持ち悪い」と思われがちだというアンチパターンを示してくれている。

ゲイ=保毛尾田保毛男のイメージで凝り固まっている人々に対して、「差別はよくないんだ!」と強要するよりも「かっこよくて魅力的なゲイ」という姿を見せることのほうが戦い方としては強いんじゃないかと。

保毛尾田保毛男という、「気持ち悪いホモ」のイメージは世の中に存在する。 これを糾弾するのは「正しい行為」であるけれども、「勝てる戦略」ではなさそうだ。 であれば、したたかさを戦略として組み込んでいくことが必要なのではないだろうか。