Nintendo Laboをめぐる正当性の問題

最近話題になったNintendo Labo Nintendo Labo自体がいいものか。人によって意見はいろいろあると思う。僕も最初見た時はほしいなと思った。昔はゲーム機本体を持ってないのにコントローラーだけハードオフで漁るくらいコントローラー好きだったし。。でもSwitchすら持ってないし、他にやりたいゲームもないので買うまでではないなという結論に至ってます。

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諸々のいろんな方向性を考慮してのベストな素材と提供方法が“ダンボールで自分で作ってもらう”になったというわけです。知育トイ的な見え方も加わり、親御さんから見ても、より印象のいいものになっていますよね。

この一節が肝になるわけで、別に段ボールでできてて自分で組み立てるからと言って子供の発達にいいかどうかはまったくわからない。だけれども、そうであってほしい、いやむしろそうあるべき(世界が)と思わせるような雰囲気がつくりあげられている。

こういうのって、疑似科学でよくみる。 科学的に合成したものより自然にあるもののほうが体にいいとか、環境によって植物が変化してその子孫にも引き継がれるとか、水に「ありがとう」と声をかけると良い水?になるとか…。後ろ2つは現代で信じる人そういないと思うけど、最初のやつは割と信じてる人多いと思う。プルトニウムだってごくわずかには天然に存在するんだぞ。

こういうのは論の内容がイデオロギー的な「善さ」と合致しているため、正しさと「善さ」が混同される。そして、正しいからではなく「善い」から信じられるようになりやすい。そしてその論に対する「それ間違ってない?根拠はあるの?」という問は論理的な正当性への挑戦ではなく、「善さ」への挑戦だとみなされる。「善さ」はそもそも価値判断の基底なので、議論どうこうではなくなってしまう。

今で言うと、EM菌とかなんでしょうかね。

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何も考えずに河に微生物をぶち込むとかいいわけないでしょ…と思うけれども。赤潮とか知らないのかな。


こういう現象って、なんていうんでしょうかね?

僕の指導教官だった教授はこういうのをレジティマシーという言葉を使って表現していたんだけれども、レジティマシーは正"統"性といった意味を持っているらしくちょっとびみょいんじゃないかなぁと思った。

こういう、証拠を示さずとも「ありそう」さでそうだと信じられてしまう現象やその論の備えている性質について適当な言葉をご存じの方いたら、教えてください。