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Enforcement / Empowerment

雑記/思考の軌跡
最近興味がある話題として、「自力救済」がある。中世ヨーロッパ、特に中央集権制の発達が遅れたドイツ地域では「フェーデ」といって自分の権利が他者に損害された場合、仲間と協力してそいつに報復をすることができたんだそうだ。
しかし現代の国家ではマックス・ウェーバーのいうように、暴力は独占されておりわずかな例外をのぞいて法に基づいた権限を与えられていないかぎり、私人が暴力でものごとを解決することは許されていない。
(この他にも、中世ヨーロッパの裁判は「規範よりも仲裁」に重きを置いているとか…)

こういった話って「法思想史」になるのだろうか、と思って何冊か書籍を購入してみた。


増補新版 法とは何か (河出ブックス)
長谷部 恭男
河出書房新社
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残念ながらこの興味は法思想史とは違うらしく、多分中世法制史とかになるのではないだろうか。

しかしまぁ面白い話題はいっぱいあって、「法予言説」とかそんな考え方もあるんやなぁという感じ。
「なんで人を殺してはいけないのか」という問題がよく言われるけれども、法予言説の立場にたてば法律にはそんな規範的な意味はなくて、単に「日本国内で、意志によって人を死に至らしめたら懲役刑または死刑に処される可能性がありますよ」ということしか言っていないということになるのだろうか。別に殺人がいけないルナ先生だなんて言ってないですよ、ということだ。

まぁ僕はそこまではいわないけれども、「なんで人を殺してはいけないの?」という問いに対しては「道徳的な」答えは不十分だと思う。(一時期大河ドラマの影響かなにかで「ならぬことはならぬものです」という会津藩かどっかの教えがやたら褒められていた時期があったけど、あれは立憲主義とは対立する危険な教えだと思うんですが。)
立憲主義国家である以上、憲法に裏付けがない限り勝手に法律を作ることはできない。日本で殺人が禁止されているのは憲法で「基本的人権(生存権)の尊重」がうたわれているからである。でもじゃあなぜ基本的人権は尊重しなければいけないのか、という問題にすりかわるだけである。

結局のところ憲法の正当性に関しては一種の神話的な力によるものに頼っている。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由 のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を 確定する。
日本国憲法の全文にはこのように書いているけど、今70歳以上の人で「自分は今の憲法を作った一人である」という人は何人いるだろうか。レベルとしては古事記の国生み神話とそう変わらない。
憲法を制定したのは一般意志の代理であると自称する力である。(日本国土に存在していた最も強い力は進駐軍
それがスパっと基準を明確に決めているところが重要になる。(主権者は半分人間だけど半分は狼なのだ)

ここを個人個人の「道徳」に基準をもとめようとしてしまうと、おおまかに殺人はよくないというレベルでは合意したとしても細かいところまで合意が得られるかはわからない。
殺人犯に人権なんて認めるな、という人もいるし多神教徒は悪魔だから人権なんてないんだという人もいるだろう。
えてして問題になるのはそういう特殊な事例であり、そういったときにいちいち個人個人の道徳が衝突していたらその解決だけで時間が消えていってしまうだろう。

そこで必要になるのがやはり外部審級となる権威であって、立憲主義国家ではそれは憲法を頂点にする法になる、ということだろうか。
それはプラトンデリダ的には正義じゃないかもしれないが…。

科学技術の進歩が善いことなのか悪いことなのかもよく語られる話題ではあるが、進歩が選択肢を増やしたことは間違いない。(下のテクニウムって本も最近読んだ)

テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?
ケヴィン・ケリー
みすず書房
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法律というとあれをしちゃいけないこれをしちゃいけないということを決めている「人のやりたいことを制限するもの」であるというイメージもあるが、政治のテクノロジーとして人々の可能性を増やすために進歩を続けているものでもあると思った年末年始でした。