get wild

アスファルト タイヤを切りつけながら 暗闇 走り抜ける…
大学二年くらいから始めた趣味に、夜の自転車徘徊というのがある
だいたい10時位に家を出て、二三時間を目安に走るというものだ。
一年中やっているわけではなく、だいたい5,6月から10月くらいがシーズンであるので、今年はまだ始めていない。

始めた頃はわりといろいろなところをまわっていたんだけれども、最近はもう臨海地区にしかいかない。(豊洲有明、台場…あたり。東雲のイオンで休憩することが多い)
もちろん通り道のルートを変えていろいろなところに行くことはできるが、昔のように六本木に行ってみたり神宮外苑をぐるぐるしてみたり、などはしなくなった。
(荒川CRは夜になると本当に真っ暗になるし、相当明るいライトをつけてなければ危なくて走れない。)
浅草は近いので帰り道に組み込みやすい

直接的な理由としては、あのへんは道が整備されている割に夜になると車もいないし走りやすいというのもある。
しかし、それ以上に「海に呼ばれている」気もする。
僕は昔から25mも泳げないし、ほんのわずかながら?潔癖気質もあるので海水浴などはずっと行っていないし、また行きたくもない。しかしそれでも、どういうわけか夜の海をみたくなる衝動に駆られることがある。
それはやはり生命がもともとは海にいたということと関係しているのだろうか。

これは海じゃないけど…
水があるところっていいですね

海というのはいまだに「人の領域」ではない。
随分前に「塚原卜伝」という投稿で書いたことがあるけど、陸というのは人によって条理化されている。特に自分が住んでいる東京二十三区なんかはそうだ。
普段そういうものに抑圧された生き方をしていると、海の「どうしようもなさ」に向き合いたくなるのかもしれない。
(「頑張れば良い結果が得られる」というのは都市に住む者の発想なのではないか、というテーマの話を見た。これはかなりいい点をついていると感じている。)


また、夜の街を走っていると当然家々には明かりがついている。
これを見るとどうしようもない無力感というか、そういったものに襲われることがある。

普段街中ですれ違っている「名も知らぬ大衆」たちは、決して自分とすれ違う時だけ地面から湧いてきて視界から消えたらフッと消えるなんてものではなく、彼らにも帰るべき「家」があって、そこでたしかに生活しているのだ、ということを思い知らされてしまう。

自分との関わりはただ生涯にたった一度すれ違うだけであったが、そいつにも両親がいて、いろいろな人と関わりながら成長してきて、そして「自分とすれ違うその瞬間」まで生き抜いてきたんだと思うと、いのちの力強さといったものを感じる。
その一方で、自分のあずかり知らぬところでそいつが生きてきて、そいつが周囲の人々と関係を築いてきて、と思うと、自分の干渉できる範囲というのはなんて狭いんだろうと思う。
自分がかかわり合いになれる人というのはどれくらいいて、そしてその人達のどこまで自分は踏み込むことができるのだろう。そう考えると人間一人というのはものすごい小さな存在なんだと思う。

一人一人の人間には、そういう「重み」というか、歴史があるんだということをみんなが意識すれば、もっとお互いを尊重し合えるようになるんではないでしょうか。※


※最近エッセンシャル細胞細胞生物学を読んでいると、下手な「道徳」よりも分子生物学のほうが生命の尊さを伝えられる気がする。
僕は自殺なんてしようとおもったことがないからその心理はよくわからないけど、今まさに自殺しようとしている人に対して「命は尊いものなんですヨ」とか耳触りのよいだけで中身の無いことばを投げかけるのは意味が無いような気がする。
それよりも、「お前の『意識』は死にたいなんて思ってるかもしれないけど、その意識を支える細胞たちは『生きる』ために、まさしく今でもDNAを転写したりATPを合成していたりするんだぞ!」とか呼びかけてみたほうが思いとどまるのではないだろうか。